こんにちは、こんばんは。オリーブです
今日は、次女の成長と私が発達障害を疑ってから
実際に診断が下るまでの8年についてお話しようと思います
この記事では……
私が次女の発達障害を疑ってから診断確定まで
何を考え、どう動いたか
一つの例として知ることができます
育てやすかった乳児期
手がかかった長女に比べ、
生まれたばかりの次女はとても手がかからない子でした
とにかくよく寝る!
泣くのはお腹が空いた時とオムツが汚れた時くらい
一日の大半をベビーベッドで過ごしていました
抱っこ魔だった長女とは正反対
市の健診でも問題なく、身長も体重も
発達レベルも標準の子でした
ちょうど公文教室を開設したのが、生後11か月の頃
前年にリーマンショックがあって製造業に勤務する夫は
毎週毎週、週休4日!
ボーナスも出るか危うい、なんて言われていたので
私も働かなきゃ! と焦って仕事を探していたところ
公文の指導者をしている友達に誘われて応募。
その後、研修を経て開設しました
開設当初は生徒も少なかったので
我が子は自分の経験値を増やすためのいい実験台www
「読み聞かせをたくさんしましょう」
という公文式の教え通り
長女にも次女にもたくさん読み聞かせをしました
育てにくさを感じた幼児期
読み聞かせが功を奏したのか、
次女は早い段階で文字が読めるようになりました
2歳半頃には自分で絵本を取り出して
ひとりで読んでいましたね
初めは聞き覚えで暗記したものを読んでいるのかと思いましたが
新しい本を手渡しても自力で読んでいたので
しっかり文字が入っていたのだと思います
ところが、読書の時間以外は
まったく目が離せない子でした
なんにでも興味を示し、触らないと気が済まない
コンセントの穴に指は突っ込む
食器棚から全部お皿を出す
ティッシュもトイレットペーパーも
おもちゃも
本も
とにかく何でもかんでも
片っ端から出して遊び、次へ興味が移る
の繰り返し
家中にベビーゲートとチャイルドロックが
仕掛けられました
それが4歳になっても5歳になっても続き、
お店でも同じことをするものだから
とにかく目が離せない
しかも年齢が上がるごとに賢くなって
ついにはベビーゲートを自力で開けることが出来るように!
幼稚園から帰っていて夜寝るまでの間
気が休まることが無かったです
一度寝ると起きれない
小学生になって、そういった興味本位の
行動が少しだけ落ち着きました
年齢的にも言われたことを理解する力が
身についたということと
周りの様子を見て目立たないようにしようという気持ちも
芽生えたんだと思います
学校ではとてもいい子ちゃんで
先生方にも友だちにも頼られる存在
(家の様子からはとても想像できませんが)
懇談会でも家庭訪問でも
褒められることが多かったです
ただ、学校で頑張っている分
家では燃料切れを起こし、帰ってくるとすぐ寝てしまいました
一度寝るとなかなか起きれず、2時間3時間平気で寝てしまう
声をかけて体をゆすって、強制的に上半身を起こしても
まったく起きない、ということが多くなりました
また、以前は平気で食べていたのに
「食感がイヤ」
「匂いがイヤ」
といって食べなくなるものが増えていきます
この頃、私はすでに発達障害を疑っていました
幼児期の様子
睡眠の障害
食感や匂いに敏感
などなど、私の中で何か引っかかるものがあったからです
小学3年でWISCを受ける
1年生、2年生と様子を見てきましたが
私の中で疑念は大きくなるばかり
そこでスクールカウンセラーの先生に相談し
学校でWISC検査をしてもらいました
結果は……
以前の記事でも書きましたが →姉妹でもこんなに違う
「とてもよく出来る」「よく出来る」部分と
「平均的」に出来る部分がある、という
発達の上の方での凸凹があると分かりました
確かに年齢のわりに出来ることが多かったり、
大人びた考え方をしていました
だからこそ、こんな難しいことが出来るのに
なんでこんな簡単なことが出来ないんだろう
と思うことも多い
(高校生が読むような本を好んで読むのに
壁に落書きしたり、友達とのケンカが絶えなかったり)
次女の頭の中はどうなってるんだろう?
と毎回不思議でした
ともあれ、平均より下になる部分が無かったので
カウンセラーの先生とお話した結果
この時は「もう少し様子を見ていきましょう」
ということになりました
反抗期到来!
高学年になり、いよいよ反抗期に入りました
この頃になると朝起きれないことが日常化
1時間目に間に合わないなんて普通
2時間目から行ければ良い方
3~4時間目だったら渋々行くけど
お昼になってしまえば
「給食食べに来たって言われたくないから
今日は行かない」という始末
家でもダラダラしているし宿題忘れも多い
生活すべてがだらしがなく
声をかければ「うるさい」だの「分かってる!」
という答えがかえってくるばかり
私もどうしていいか分からず
なだめたり怒ったり
とにかくネットや本で調べては
ありとあらゆる方法を試し
学校へ行かせようとしていました
反抗期ということもあって
出来るのに(親への当てつけで)やらないのか
本人に出来ないことを(親は)強要しているのか
私自身もその部分の線引きが出来ず、
親としてやらせるべきか、出来ないものとして諦めるか
次女の問題行動に対して頭を抱える日々でした
もちろん、無理やりやらせるのは良くないんじゃないか
そう思う気持ちもありました
しかし、ある日三女に
「なんで私は学校行くのにお姉ちゃんは行かなくていいの?」
と言われ、返す言葉もありませんでした
当時、誰の目から見ても三女の態度は怠けているようにしか見えず
三女の疑問は至極当然で、親もそれを取り繕うだけの
気持ちの余裕も、明確な答えも持ち合わせていませんでした
小6から中学へ
中学は公立ではなく、国立大附属中へ進学しました
姉が(望んで)通った中学ということもあって
内情も良く知っていること
先生方も信頼できることが大きかったです
何より、6年の夏頃に受けた二度目のWISCテストで
IQ130以上と出たことや、本人の性格上
勉強が楽すぎると逆にやる気が削がれそう
という担任の先生からのアドバイスもあり
附属中への進学を決めました
附属中への進学後、しばらくは楽しく通っていました
先生が面白い
授業が楽しい
友だちもたくさんできた
次女にとって頑張れる要素がたくさんありました
しかし入学から半年を過ぎた頃から
また徐々に遅刻が増え、ついには学校へ行けない日も
増えていきました
この頃から再三次女に
「発達の病院へ行ってみよう」
と誘っていたのですが、本人の答えはNO!
「○○障害」と名がつくことを嫌がっていました
本人を説得するためにスクールカウンセラーや
保健室の先生と何度もお話しました
しかし、学校では上手く立ち回っているので
返ってくる答えはいつも
「様子を見ましょう」
いったいいつまで様子を見ればいいんだと
出口のないトンネルに迷い込んだ気分でした
そして、さらに1年が過ぎた中2の1学期
1週間全て遅刻した次女
附属中ということもあって、登校はバスと
電車を乗り継がなくてはいけません
仮に9時に起きれたとしても、学校に到着するのは
10時を余裕で回ります
附属中は授業開始が早く、この時点で
2時間目が終わっています
起きる時間が遅くなればなるほど
次女の登校意欲は下がる……
こうなったら、自宅から歩いて20分ほどの公立中の方が
行ける確率が高いんじゃないか、と私は考えました
今までの私だったら、思っても行動するところまでは
踏み込めませんでした
でもこの時にはすでに万策尽き、子どもとの言い争いも激化
お恥ずかしい話ですが
お互いに手が出るなんてこともありました
もう後がない
そんな切羽詰まった状態で
転校を視野に入れて、市の子ども課へと相談に行くことを決めます
この決断がのちに大きな転機となるのです
相談員はかつての恩師!
転校の手続きについて聞くため
子ども課へと行った私は、そこでこどもの現状を話し
手続きなどの方法について説明を受けました。
私自身、転校も一つの手段だという気持ちがある反面
一度サヨナラした小学校の友達と再び馴染めるか、という
新たな心配もあり、かなり迷いはありました
そのあたりのこともお話した結果
窓口に出てくださった方が
「転校に関しては書類一つで完結しますが
お母さんも迷いがあるようですし、よかったら
今、相談員と少しお話していきませんか?」
と勧めてくださったのです
正直、カウンセラーや保健室の先生のこともあったので
「どうせまた『様子を見ましょう』って言われるだけじゃ……」
とも思ったのも事実
しかし、あまりに熱心に勧めてくださるので
お話だけでもしていくか、と思い承諾しました
個室に通されて数分後
「お待たせしました」といって入ってこられた相談員さんを見た時
私は思わず「あ!」と声を出してしまいました
相談員というネームプレートを下げた方は
私が中学の時の家庭科のM先生でした
M先生は当時30代後半で、面倒見の良いお母さん
という感じでした
というのも、私のクラス担任は25歳のまだ若い独身の先生。
お酒好きでしょっちゅう朝食を抜いて来ていた
(そんな先生が2,3人いた)ので
M先生は自宅から持ってきた米を家庭科室で炊いては、
おにぎりを作って先生たちに配っていました
そのM先生に
「M先生、私〇〇中学でA先生のクラスだったんです」
と説明すると
「えっ!? A先生の生徒さん?
あ、ああ覚えてる! もしかして○○さん?」
と私を旧姓で呼んでくださいました
そこから昔話に花が咲き、M先生といろんな話をしたのち
本題の次女の話をしました
先生は本当に親身になって聞いてくださいました。
そして一言
「すぐに、娘ちゃんと病院を受診しなさい」
とおっしゃいました。そして続けて
「あなた一人で抱え込んでしまってはダメ。お母さんが壊れちゃうわ
専門家を入れて、本人も一緒に今の問題に向き合いましょう」
とおっしゃって下さいました
しかし、近くにある発達専門病院は大きな病院
紹介状なしでは敷居が高い
そうお話すると先生は少し考えて
「私の主治医、私の家からも近いしそこへ行きなさい。
内科だけど私(M先生)の紹介で来たって言って、今すぐ
紹介状書いてってお願いしてみて」
とおっしゃって、かかりつけのクリニックを教えてくださいました
M先生にお礼を言って市役所を出て私はいったん家に帰り、
学校を休んでいた次女に経緯を話しました。
第三者であるM先生の言葉であると伝えると、ようやく次女は納得し
その日のうちにクリニックへ行くと言ってくれました
クリニックへ行くと、ひと通り話を聞いたドクターは
「じゃあ、僕の仕事は紹介状を書くって感じで良いかい?」
とにっこり
どうやらM先生から連絡があったようでした
そして即日、紹介状とお目当ての病院の予約を取ることが出来たのです
受診とその後
数日後、予約の時間に次女と共に受診
ドクターは丁寧に話を聞いてくださいました
幾つかの質問と過去2回分のWISCの結果も確認し
「ADHDで間違いないと思います」
という診断が下されました
そして、朝起きれないという症状についても
ADHDによる「睡眠障害」ではないかとの見解
コンサータというADHDの治療薬を試してみようと
丁寧に説明してくださいました
もともと頭の回転が速い次女はすぐに状況を理解し、
服薬に同意しました
病院からの帰り道
「薬を飲めば少しは良くなるかもしれないって聞いてホッとした」
次女がぽつりと私に言いました
この言葉を聞いた瞬間、
次女なりにこのままではマズイという気持ちはあったこと
そして今まで、私は娘が出来ないことを強要していたんだ
ということを知ったのです
「ママの方こそ、あなたが苦しんでいる時に理解してあげられなくてごめんね」
と涙ながらに次女に謝った時、次女もまた
「ママ、今まで八つ当たりしてごめん」
と涙を零しました
このあと、二人で抱き合って泣いたのは言うまでもありません
でもそれは悲しい涙ではなく
ようやく暗いトンネルから抜け出せたんだという、喜びの涙でもあったのです
中学2年で飲み始めたコンサータですが
あれから4年経った現在も次女は飲み続けています
最近はTikTokの動画を見せてくれて、
「ママ、コンサータを飲む前と後ってね、本当にこんな感じなの」
といって違いを教えてくれました
ガヤガヤしていた頭の中が
薬を飲むことでシンと静かになって
集中して何かに取り組めるんだそうです
心配していた睡眠障害はその後、
起立性調節障害を発症したこともあって治療を続けていましたが
最近は症状も軽くなり、学校にも朝から行けています
本人曰く
「あの時病院に行って良かった。コンサータを知って人生が変わった」
そうです
結局は自分で動くしかない
今回の経験で私は
「自分の道を切り拓くのは自分しかいない」
「そして自分が動き出した時、ようやく周りが動く」
ということを学びました
発達グレーの子どもに診断を下す
それはとても勇気がいることかもしれません
様々な疑念を抱きながら、私も動けずにいました
そして周りもデリケートな問題であるため
誰もGOサインを出しませんでした
しかし、私が一歩を踏み出した途端
小さな歯車が一つずつ組み合わさり
あっという間に大きな大きな一歩になりました
全てが今回の次女のようにいくかと言えば
それはケースバイケースでしょう
しかし、親が動かなければ事態は全く動かない
その可能性も大いにあるのだということを知って欲しかったのです
そのうち誰かが何とかしてくれる
そんなことはあり得ないのだと肝に銘じるべきです
我が子を守れるのは親
周りはあくまでサポーターなのですから
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